鍼(はり)って怖い、痛そう、ってイメージありますか? 昔私もありました。
河合は、自分が 怖がり痛がりで、つらい思いは嫌いで気持ちいいのが好き…って 個人的好みの面と、できる限り「命を邪魔しない」東洋医学を探求し、結果として
「刺さない鍼」にたどりつきました。
おもえば…私が他者にした鍼で、私自身が「あ!鍼ができた」と感じ、まったく同時に受けていた人=先輩が「あっ!きた!きてるーすごい~」の言葉を発した、
鍼を鍼として できた「最初の鍼」は、
差し入れる鍼ではなく、触れる鍼でした。
鍼灸学校学生のころ。触れる鍼の勉強を始めて そう長くはたっていない頃のことです。自分も他人も実感できた鍼は鮮烈な体験でした。先輩の体調、窓からの光の気配、ベッドのシーツの白、タオルの手ざわり…そして、終わった後の先輩の笑顔。かけがえのない思い出です。
当時、鍼灸学校の授業で習う鍼は 痛い怖い鍼。下手が練習でやるのですからそれはもう、筆舌に尽くしがたい。東洋医学が嫌いになり心折れそうでした。(でも それは、しょうがありません。人命にかかわるのですから)
そんな壮絶な鍼灸学生時代、奇跡のようなご縁で 触れる鍼と出会い ほれ込み、そしてなにより、憧れの臨床家から教わることができたのです。
誰になにを教わるか、どんな手法に出会うかは、もう運命。
個人個人一人一人の臨床家人生の運命としか言いようがありません。
今はもうお空に戻られた先生から、手から手に教わった。
先生の手を私の身体が覚えています…先生のことをおもうと 心が温かく手が温かくなります。
そんなわけで私の臨床家人生の根幹が、「ふれる」鍼。
私にとって 手で触れる、も、鍼で触れる、も、深く密接につながりあっています。
東洋医学のこと何にも知らない初めての患者さんに、「ふれる」を わかってもらえたとき、毎回毎瞬、初心に戻って感動し身が引き締まります。
「触れる」は、手でも鍼でも 簡単ではない、けして。
でも それだけの価値がある 人類の叡智だと思っています。